ショスタコーヴィチの夢

 

ballerina

 

 

 あの時どうするべきだったのか。こうした問いが一つの正解を持つことは稀である。それが当人にとって耐え難くつらいものであったならば、そこに審判の必要はない。悲しみが起これば、向き合うか隠蔽してしまうかしかない。無かったことにはできないから、何とかして対処しようとする。自分自身が壊れて仕舞わないように、造り上げた狂気の中に身を置いて対消滅させようとすることもある。それは決して罪な行為ではない。

 

ボリス・ベルキンによるショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第一番を聴きながら考えた。序盤の陰鬱な楽想はよく聴けば統御された淋しさだった。涙など浮かべていない。それどころか人間らしい感傷とは一切無縁な透徹した精神を感じさせる。色彩感が一気に様変わりしたのは、神の子が暇を持て余してはじめたイタズラめいた祝祭のようなスケルツォの後。あれほど超然としていた主人公が悲嘆に我を忘れて泣いていた。悲しみの実感を思い出して泣き崩れていくようなメロディーが聴いていてひたすら辛かった。終楽章のブルレスケでは逃げ込んだ幻の中で乱舞して終わる。華々しい消失は一つの征服だった。