様式と転成

Words without thoughts never to heaven go.

「印象派を超えて」展@国立新美術館

 

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photo by fusion-of-horizons

 

 久しぶりの美術館、最期に行ったのはいつだろかと思ってTwilogで調べてみると、どうやら新春弥生の頃がそうだった。「ポール・デヴォー展」が最期の記憶である。何とも夢見心地な安らかな記憶である。そうしてついにそうして不意に、再び美術館に赴く好機に恵まれる。平日の穏やかな朝陽を感じながら電車に揺られ、わたしは乃木坂に向かった。

 

 軽やかにひかるスーラ

 

 クレラー=ミュラー美術館所蔵ということで大変贅沢なコレクションの集まった美術展だが、わたしは特にこのスーラの絵画をじツと観てみたいと思っていた。ゴッホシスレーも興味深いが、スーラの絵画を腰を据えて鑑賞した経験が未だほとんどなかったわたしのターゲットはこの画人に他ならなかった。展示されていたものの中では、『グラヴリーヌの水路、海を臨む』が印象に残っている。透き通るような淡い色彩の中に浮かぶ舟がとても可愛らしい。安らかなその風景に融けて行くような心地さえして、わたしはしばらく茫然と夢越しにこの絵とのひと時を吸い込んだ。

  

 

 いつ観ても感動して仕舞う。ゴッホの絵画には、その塗り込まれた色彩の上にはつよい情念がこびり付いている。そうした気魄に中てられるとふツと眩暈がすることすらある。本美術展の看板にもなっている『種まく人』、それからそのすぐ左隣にセッティングされた『麦束のある月の出の風景』の二作は正にそのような一種魔的な空気を纏っていた。とくにわたしは後者の絵画と対峙してそれをつよく感じていた。しずみゆく太陽のような精力に溢れたオレンジいろの月と、揺らめいてその月を抱く怪しげな青い空と山。それこそスーラの絵画に現れているような清浄な美学とは相容れない、妖艶な色彩の宴である。いつも思うことだが、ゴッホの絵画は二次的に観てはいけない。写真として加工されたゴッホの絵画からは、それが本来備えている幻覚性が完全に失われている。彼の作品をこの場で画像としてアップすることはしたくない。ぜひとも美術館で実体験し、それぞれに美しくいのち溢れる幻影を想って欲しい。

 

 トーロップとの邂逅

 

 ヤン・トーロップという画家をご存じだろうか。恥ずかしながら教養のないわたしはこの名をはじめて知ることになった。美術展をどう鑑賞していくかと云うことは当然それぞれ十人十色だと思う。わたしの場合、基本的にはまず遠くから眺める。そこで心にピンと来るものがあれば近づいてゆく。しばらく凝視し、しばらく透視し、そうして絵の中に浸ってゆく。そうでなければ、さあツと流れてゆく。研究というか何と言うか、プレートの説明は画家の氏名を確認する以外にはいつからかほとんど読まなくなった。ただ感性の赴く侭に任せて、左脳はあくまで歩行の調性を保つためだけに使う。そうしていると、ときに「あれ、この画家の名についさっきも遭遇したな」という現象が起こる。感性と云うのは意外と誠実なもので、ある程度の法則あるいは習性を持っている。

 

 光学理論と転写の技法

 

 この美術展では、わたしの感性はトーロップに何度も収斂した。この感性的必然がもたらして呉れた出逢いに感謝したい。中でも印象的だったのは『秋』と『海』である。どちらも本当に笑みが零れて来るほどうつくしい可憐な絵画であった。色調や諧調といって仕舞うとそれらは繋がれた線あるいは波となるが、トーロップはじめこの美術展の画家たちは皆それをひとつの「・」として描き込み、鑑賞者が絵画と適切な距離を置いて視た時に最も効果的な映え方をするよう工夫したという。このトーロップの絵も又、海の美を人の眼にひびくように美しく再構築したのであろう。あゝ、輝かしき分割主義、コンセプトはここまで繊細な神性を宿すのか。

 

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