Project KALAVINKA

日常に眠っている「美」を千切り取ってゆく

スダーン指揮東響:ブルックナー交響曲第4番『ロマンティック』@ミューザ川崎シンフォニーホール

 

http://www.flickr.com/photos/30176957@N04/8697571746

photo by Stephen A. Wolfe

 

  ミューザ川崎へ、東響&スダーンの奏でるブルックナーの『ロマンティック』を聴きに行く。それだけでもなく、レイ・チェンによるシベリウスのヴァイオリン協奏曲がプログラムに並ぶ。どちらもわたしがひときわ愛する曲である。十一月というのは、クラシックの聖月である。この時期にはいつも世界の錚々たる楽団が来日する。わたしはヤンソンスとコンセルトヘボウによるシュトラウスの『アイン・ヘルデンレーベン』を聴く筈だったのだが、かなしいかな仕事が重なって行けなくなって仕舞った。チケットは知人に譲って楽しんで貰えばいいが、わたしも折角ミューザに行きたかったところだから何かいいコンサートはないかと探していたところ、このプログラムに行き着いたのである。

    

 ときに円に、ときに鋭く。

 

 レイ・チェンのヴァイオリンは、冒頭部ではとてもやわらかい印象だった。シベリウスの、つめたく厳しいところが漂うことが多い旋律も彼はとても優しく円みを帯びたメロディーに創り上げていた。切り込むような切なさはほとんど微塵も感じられなかった。こういう暖かいシベリウスもあるのかとはツとさせられた。第二楽章に入って、少々戦慄が走る瞬間があった。椅子が、劇場が、揺れている、たしかにそれは地震だった。そこまでつよい揺れではなかったが、わたしだけでなく聴衆の方々は悉くあの無残に壊れたミューザの姿を想起したに違いない。一瞬、恐怖を感じたが、オーケストラは怯むことなく旋律を紡いでゆく。この緩徐楽章があそこまで麗しく慰めるように聴こえたことはなかった。わたしは改めて世界の苦悩と音楽の恩寵を肌で感じ、ミューザの神々に感謝したのである。つづくアレグロでは、ヴァイオリンもオーケストラも何処となく力づよく唄っていた。レイ・チェンは打って変わって鋭く烈しく躍っていた。わたしの心は、楽興の舞曲に歓喜した。

 

 広壮なる美学、ブルックナーの神髄

 

 それにしても、後半の、スダーンと東響の創り上げたブルックナーの第四交響曲は途轍もなかった。スダーンらしく弦楽には色鮮やかに繊細にやさしくゆったりとひびかせるところはたっぷりとひびかせる一方で*1、管楽器の活躍するパッセージでは後期ロマン派の魅力を最大限に惹き出して、巍然たる空気をホールに轟かせていた。純なるものと豪なるものが肩を組んで凱旋しているような華々しさ、その何処を取ってもつよい光とほのかな光とがうつくしく融け合っていて、わたしの脳髄はずつと刺戟を与えられつづけて麻痺しかけた。幾度となく築かれるクライマックスではこころのみならず、体躯そのものが奏でられるリズムの波に呼応して震えていた。

 

 

 聴いていて一つ思うのは、スダーンと東響のブルックナーには朝霞のようなものがなく奇麗に澄み切った情景が感じられるということ。特に管楽器の響き方によるところが大きいのだろうが、曇ったところがなく清澄というよりうるわしい晴天を想像させるような音楽だった。雪の銀と空の青とが絶妙の涼しげなコントラストを織りなす晴れ渡った朝、そういう幻像がこころの鏡に映り込んで来る。スダーンは矢張り一つのバランスとして可能な限りグラツィオーゾ&アマービレな歌を求めているようで、それが結果的に灼熱でなく朝の有難い曙光、それも限りなく澄んで瞳の奥に射し込むようなひかりをメロディーに溶かし込んでいたように思う。本当に、つよく耀きつつ柔和なブルックナーであった。あゝ、もうこのコンビネーションのブルックナーが聴けないというのは何と云う不幸だろうか。否、この度のこの奇蹟的なパフォーマンスとの出逢いに、わたしは精一杯感謝しないといけない。有難うございます。御蔭でもう少し、生きてゆけそうです。

 

 

*1:第二楽章はさすがに天国的すぎる感もあった。ふくよか過ぎてもう少しで停滞して仕舞うのではとも懼れたが、いずれにせよ緩やかに唄い上げようという意志が確認出来た。

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