Project KALAVINKA

日常に眠っている「美」を千切り取ってゆく

スダーン指揮東響:モーツァルト交響曲第41番『ジュピター』@ミューザ川崎シンフォニーホール

 

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photo by downhilldom1984

 

 ミューザ川崎で、スダーンと東響の創り出す妙なる合奏に聴き入るのもこれが最後になるだろか。あア、さみしい。でも、さみしいからこそ、このコンサートは深い想い出となってわたしの中に確かに降り積もることだろう。そのためにも一つ、感じたことを素直にことばに起こして置きたい。

 

  

 かつてサントリーホールでスダーン指揮の東響による『ペレアスとメリザンド』を前方席で聴いたとき、そのあまりに優雅な音楽に涙したのを今でもよく憶えている。スダーンの指揮はやわらかく心地好い曲線を描く。それは音楽に温かみを与えることになるが、一方で力を込めるところはぐツと凝縮してくる。そのコンサートは常に表情豊かなものとなり、優しい昂揚感に充ちて帰路につくことばかりだった。そういう音楽を体験させてくれたユベール・スダーンの指揮に、これからも栄光の在らんことを祈って。

 

 絶えることない仄かなひかり

 

 前半は、中村紘子を招いてピアノコンチェルト第24番。いわゆる短調の楽曲ではある。ところどころ、ピアノの旋律がなみだを流しているようにも感じられる。どことなく暗くさびしい雰囲気が底流している。しかしながら、変ホ長調のラルゲットはうつくしかった。スダーンの指揮にもよく合っていて、魅力溢れる楽章だった。そして、優しい対話に終わることなく、敢然とした様相を呈する場面もある。こういうところは、聴いていて本当に胸がくるしくなった。何と云うか、悲壮な楽想に涙しそうにもなった。けれども矢張り、つつみこむような暖かいひかりが常に舞台を照らし続けていた。

 

 

 淑やかに、戯れるように

 

 後半は、休憩を挟むことなく、モーツァルトが創った最後の交響曲を聴く。あア、何と云う哀しくなるくらい美しい設定だろうか。この曲を選んだその意図を慮ることなどなくとも、このモーツァルトの楽曲に込めたスダーンと東響の想いは分かる。アンダンテにせよメヌエットにせよ、典雅なものだった。そしてそれ以上に、スダーンと東響の紡ぎ出す音楽がシンフォニーであることを軽快に主張していた。それぞれが互いを聴き合って決してその存在を誇示することなく支え合っている。シンフォニーの一つの完成形が生き生きとホールに響き渡っていた。

 

 いつかまた思い出せるように

 

 コントラバスの後ろ側に座っていたので、全体として低弦は直接身体に響くことがなく、代わりに第一ヴァイオリンやヴィオラの旋律がいつも以上にクリアに聴こえてきた。だからなのか、その判断は難しいが、重苦しさの抜かれた優美なジュピターだったと思う。最終楽章のあのコーダの際立った輝かしさ、うつくしさ、諸々の美学の祭典をそこに感じるような心地がした。あつと言う間に音楽はさつと終わりを迎えて仕舞う。けれども、スダーンと東響の生み出した理想はあのホールに居合わせた聴衆のこころの中で、永遠にひかりを放つことだろう。本当に、有難うございました。

 

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