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Project KALAVINKA

日常に眠っている「美」を千切り取ってゆく

コルネリウス指揮読響:R.シュトラウス『アルプス交響曲』@東京芸術劇場

 

http://www.flickr.com/photos/34205810@N02/15353747705

photo by gaheilon

 

 詩にあるいくつかの機能として、歌と語りの二つを挙げた詩人がいる。語りというのはいわば説明であり注釈であり説得であり、分析的と言える。一方で歌というのはいわば伝達であり送信であり声明であり、直情的と言える。この二つのパートが均衡し合うことは必ずしも必要ないが、偏りが大きくなるとそれだけ総体としてのひずみは大きくなる。これは恐らく芸術一般に言えることではないか。巧い響きだが何故か感動しない。そういう演奏に時として巡り合ってしまう。この摩訶不思議な感覚を説明するのはとても難しい。今宵、読響とコルネリウス・マイスターの初共演で聴いたアルプス交響曲も、些かバランス感覚を失していた。この謎に迫ってみたいと思う。

 

 

 皮膚感覚としての感動と

 

 音楽を聴いていると、それはすなわち「波」という物理的な運動を鼓膜が捉えることになる訳で、身体に直接的な影響が及ぶことになる。ピアノの高音に背筋がすつと伸びたり、甘やかなヴァイオリンに涙が滲んだり、コントラバスの低音が腹の底に響いたり、ティンパニやホルンが奏でる大音響に体全体がどおどおと震えたり、オーケストラを聴くのは実はかなり身体的な行為だ。そうして楽曲をしばらく聴いている内に、やがて皮膚感覚レベルを越えてついには琴線に触れるところまで旋律が進行して来る。だが、今回のコルネリウスと読響の演奏は、なかなか心まで届いて来なかった。汗ばんでいるし、体が熱を帯びているのはよく分かる。けれども、何処かこころだけは興醒めしてしまって、扉が固く閉じられていたようだった。演奏に文句をつけようというつもりはない。案外聴いている私の精神状態にこそ何かしら因子が隠されているのかも知れない。ただ、いつもと同じように何を意識することもなく聴いていても感覚ががらりと変わるのだから参ってしまう。

 

 

 無愛想なこころの窓

 

 振り帰れば、以前にも同じコンサートホールで同様の経験をしたことがある。インバル指揮都響マーラー。お察しの通り、抜群に巧いというのはすぐに伝わって来るが、あのときもこころが冷然として一切反応しなかった。マーラーシュトラウスのような後期ロマン派の壮大な旋律を高水準で演奏した以上、楽譜が志向する効果は表出していたに違いない。だがそのいわば技巧的な水準を高めることに集中することによって天秤が少しでもそちらに振れてしまうと、感動の波は心臓に訪れないということなのかも知れない。オーケストラと言うか、交響楽って、本当にむずかしいと思う。『アルプス交響曲』のような気宇壮大な曲ともなればなおさらのこと、緻密さと繊細さを盤石に調えつつ、フレーズやパッセージに詩情を刻み込むのは想像を絶するくらいに厳しい技なのだろう。そうした圧倒的な芸術のフロントラインにお邪魔させていただいているだけで感謝しないといけない。

 

Eine Alpensinfonie (An Alpine Symphony), Op. 64, TrV 233: Auf Dem Gipfel (On the Summit) -

Eine Alpensinfonie (An Alpine Symphony), Op. 64, TrV 233: Auf Dem Gipfel (On the Summit) -

  • Rafael Fruhbeck de Burgos & Dresden Philharmonic Orchestra
  • Classical
  • ¥150

   

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