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Project KALAVINKA

日常に眠っている「美」を千切り取ってゆく

メータ指揮イスラエル・フィル:マーラー交響曲第5番@NHKホール

 

http://www.flickr.com/photos/53742192@N05/15703252270

photo by Neta Bartal

 

 音楽は、如何にして芸術となるか。西欧言語ではアートやクンストと呼ばれる芸術という言葉の本質的な意味合いは「人工」ということだと言う。たしかに、音響芸術が人によって創られることは疑いようがないが、人びとが音楽に感じる意識は恐らく「人工」という意味を越えてそこにある。うつくしい音楽が、それこそアーティフィシャルな意味でうつくしいと改めて言われると、何らかの抵抗を感じずにはいられない。音楽は、人工だとは信じられない水準に達してはじめて芸術となるのではないか。

 

     

 十月も終わりになり、陽が落ちると随分と冷えるようになった。午後5時くらいにマンションを出たときの恰好は、Pコートにマフラーという冬仕様。いつの間にやらコンサートホールでクロークに行く時期になったものかと感慨に耽りつつ、メトロに揺られる。十分早くについたので、しばらく明治通り周辺を散歩してからカフェに入り時間を潰した。今回のプログラムはシューベルトの6番とマーラーの5番。かなり対極的な曲想ではあるが、私は両方とも好きなので楽しみだった。

 

 綿密なる朗らかさ

 

 シューベルト交響曲をコンサートで聴く機会というのはそう多いものではない。けれども、シューベルトの曲はモーツァルトにも似た軽やかさと温かさがあって聴いていて心地好い。メータとイスラエルフィルが響かせてくれた演奏も、大変やわらかい清々しいシューベルトだった。第1楽章は全体的に暗いトーンなので、聴きながら野原に佇むさみしげな少年の像が思い浮かんだりした。それが徐々に耀きを増していき、最後には本当に快活なメロディーがホールに木霊していた。

 

 

 後期ロマン派の精華とは

 

 メータとオーケストラは、シューベルトでみせた丹念な演奏スタイルを維持していた。可能な限りすべてのメロディーが指揮によって統御されていた。イスラエルフィルは、それぞれのセクションがタイミングをみて仄かに主張しつつ、全体として均衡を失わないバランス感覚を持っていた。ホルンやトランペットが張り出して来ても決して弦楽パートが音圧的に負けることはないし、木管は程良くアクセントをつけて楽曲に彩りを添えていた。

 

 

 しかし、後半のマーラー5番は、少々期待外れだった。感動して涙が溢れることは終ぞなかった。胸が震えることはないだろうということに、悲しいかな演奏の最中で思い到って仕舞うくらいだった。巧すぎるとでも言えようか、精緻に考え抜かれた人工的なうつくしさは際立っていただろう。けれどもそうした美学は、ことマーラーの交響楽にとっては死刑宣告にも近しいものだ。綺麗なひびきだとは幾度となく感じたが、響いて来るマーラーの旋律が完膚なきまでに空洞化していた。

 

 気韻生動の何たるか

 

 中国の画論に「気韻生動」という考え方がある。作品に生き生きとした迫力と気品が漲っていることを指す。今宵のマーラーには敢えて言えばこの要素が欠落していたと思う。精密なデッサンで以て対象を描く「骨法用筆」の法に注力しすぎていた感が否めない。前半のシューベルトは気韻というより矢張りデッサンで差が付く楽曲だったが、マーラーを始めとして後期ロマン派の壮大な世界をデッサンだけで魅力的に轟かせるのは難しい。そこには埒外の、何か一種狂気染みた感性が必要不可欠なのだと改めて感じた。

 

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