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Project KALAVINKA

日常に眠っている「美」を千切り取ってゆく

「美しい」と感じるための訓練-ブルデュー社会学をヒントに

美術展

 

http://www.flickr.com/photos/55057070@N03/14375580374

photo by Jonathan Sureau

 

 パナソニックの汐留ミュージアムにて開催中の「ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち」展に行った。いくつか惹き込まれる絵画もあったが、全体的になかなかしっくりと来るものが少なくあっという間に出口に辿り着いてしまった。その後パンフレットを参考にいろいろと調べていたのだが、「こういうことしているようではまだまだ甘いな」と思った。すると何だかすっとさまざまな悩みが氷解するような気がしたので、以下それらしく書いてみた。

 

 

 「美しい」と感じるとは 

 

 よく「感動」ということが言われるが、対象の美しさに感動するというケースに於いてそれは一体どういうことを指しているのだろうか。心が震えるような感覚、言語的理解よりいち早く「あア」と声が洩れてしまうような状態だと仮定しておこう。よく分からないけれど感動するということはあれど、その逆は至極稀である。ただ、理解とは関係ないと言うと、何かとても安っぽく誰にでも接続可能な感覚のようにも響く。しかしながら、実際はそうではない。そればかりか、理解をすっ飛ばして感動できるようになるには訓練が必要なケースが多い。冒頭にて、美術展のパンフレットからいろいろと調べていた自分を甘いと評したのは、美的訓練を無視して単なる知識の集積に奔走していることを自覚したからであった。本稿では、この「美しい」と感じるための訓練についてもう少しくわしく考えてみたい。

 

 実例1.ゴーギャンの絵画

 

 ブルターニュ地方のポン=タヴァンにて活動を展開した、ゴーギャンやベルナールを代表とする一派がいた。彼らは印象派に代わる新たな潮流を生み出そうとパリを離れてこの地へ辿り着く。大枠としては写実と象徴、現実と想像の融合を意図する総合主義を標榜した。技法としては厳密な輪郭線と主調カラーによって構図を単純化し、些細なディテールは捨象されていった。西洋芸術の伝統でもあった遠近法を用いず、平坦な画面に鮮やかな純色をふんだんに塗り込んだ・・・。というような諸々を調べ上げている内に、わたしは違和感を覚えた。感動できなかった反射として理解を求めているだけなのではないか。善意で解釈すれば、分からないところを補おうと必死になるのは決して責めるべきことではない。知識が不可欠なケースもあるかもしれない。一つ確かなことは、ゴーギャンの絵画に対して感動することに私が決定的に失敗したということ。さらに、ああして知識を殖やすことが次なる「感動」につながるとも思えなかったのである。

 

 実例2.マーラー交響曲

 

 クラシック音楽は敷居が高い言われるが、なかでもマーラー交響曲は難渋なジャンルだろう。わたしはいままでに彼の創った楽曲を幾度となく聴いてきた。それこそはじめの内は難しいという印象を抱いたが、繰り返し聴いている内に少しずつその魅力が分かるようになった。とはいえわたしは譜面が読める訳でも何でもなく、大した薀蓄も備えていない。それでもこのエントリーチョン・ミョンフン指揮東フィル:マーラー交響曲第1番「巨人」@サントリーホール - FUSIL VIDEにて、わたしは「純粋に感動した」と述べている。ゴーギャンの例とは真逆のこの現象を引き起こしたのは、対象に接する経験量の差と言える。

    

 ブルデュー社会学をヒントに

 

 「美しい」と感じるための訓練とは経験である。と言うと、身も蓋もない何とも平々凡々な結論であるが、幾星霜を経た美的訓練の途方もなさに思いを馳せていると、ふとブルデュー文化資本論を思い出したのだった。いわゆる資産という言葉には経済的なものを想像することが多いが、フランスの社会学ブルデューは文化的素養を資産として定義した。氏の定義によれば、文化資本は大きく以下の3つに分類されている。

 

  1. 客体化された文化資本:楽器や蔵書など
  2. 制度化された文化資本:学歴や資格など
  3. 身体化された文化資本:言語や感性など

 

 もちろん、身体化された文化資本こそ獲得するのが最も難しい。そして、「美しい」と感じるための訓練が経験であるというのは、正にこの身体化された文化資本が「感動」に不可欠であることに立脚している。これこそ美術やクラシック音楽がしばしば否定的なニュアンスを伴って高尚と呼ばれ敬遠される所以でもあるのだろう。とは言え、美術展で絵葉書を買ったりコンサートホールで豪華なプログラムを買ったりと、客体化された文化資本だけで喜んでいるのは矢張り軽率だ。

 

 差異コードとしての「美」へ 

 

知識と教養は、それを開く鍵をもたない(その合理的かつ有効で正しい使用を可能にする暗号を知らない)人びとにとっては、より苛酷でより狡猾な文化的隔離の場ですぎない。なぜならば、人びとは知識と教養をただ学習や知的教育としてではなく、補足的マナつまり魔術的な力の貯蔵庫のようなものとして利用しているからである。

ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』ー第2部「消費の理論」

 

 途方もないこの美的訓練の旅を末永く続けていく意志がなければ、心の底から「美しい」と感じることはついぞ叶わない。そうしたことに思い至り、いまはすっと背筋が伸びる思いである。これからはより意識的に、身体化された文化資本の簒奪に向けて日々あれこれと格闘していくつもりである。

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