Project KALAVINKA

日常に眠っている「美」を千切り取ってゆく

うつくしい花がなくても構わない、ただ花のうつくしさを感じることさえできるなら。

 

 

 ベートーヴェンは「黒」のイメージと言って伝わるものなのかどうか知らないが、旋律の一つ一つにそういう印象を抱くのはたしかだ。かつて学生時代、研究室の教授に「君は共感覚ありそうだよね」と言われたこともあったが、私自身そのような異常な感性を備えているという自覚はない。塗り絵はフランス語で「コロリアージュ」って言うらしいと知って興味津津になるくらい。

 

http://www.flickr.com/photos/27536026@N04/2579256651

photo by My Silent Side

 

  色彩に対する感覚をテストする検査のようなものを以前受けたことがある。色をどれほど細分化して認識しているのかを試すテストで、結果は異常値を示していた。一般的な色覚では同一なものと認知するものをさらに細かく違う色として感じているらしい。それも人口の3パーセント程度しかいないようなものすごく低いレベルだった。信憑性のほどはわからないが、色に拘るところがあると言われればその通りだった。

 

 グラデーションの神は空にいる

 

 街中のファッション一つにしてもカッコいい服、きれいな服、可愛い服はそれはそれはたくさんあるけれど、色調が合っていなくて気持ち悪いということは多い。いわゆるコーディネートのようなセンスとは違って、色の組み合わせが微妙にズレているなと感じてしまうことがある。というかそれがピタッと嵌まることは日常的にはかなり稀で、唯一映画の中では衣裳と明度や彩度の編集によってそれがベストマッチしていることが時々あるくらい。

 

http://www.flickr.com/photos/38984549@N07/5960555987

photo by agroffman

 

 子どもころ描いた絵で最もよく覚えているのは紅葉シーズンの連峰を描いたものだった。パステルで指を汚しながら必死に色を重ねて完成させたあのときの感覚はいまでも身体がしっかりと記憶されている。大分経った後でその絵を覚えていて褒めてくれたひとが美大生だったのでいささか動揺してしまったこともあった。そのひともクリムトが好きだったけれど、場の流れでくわしく話すことはできなかった。いつかまた逢った時に花を咲かすことができるよう、色彩の差異に対する感性だけは失わないでいたい。

 

 秘せずは花なるべからず

 

 都美のモネ展が終了した。結局、いつ行こうかと思ってばかりで行かず仕舞いだったけれど、そこまで悲嘆に暮れているわけでもない。本当に行かなければならないのだとしたら何としても行っただろうから、今回はきっと縁がなかったのだろう。それに、実際の絵を観なくても、モネが来ているという事実がここ幾月かを陰ながら飾り続けてくれた。そう考えただけでわくわくするし、改めてモネの偉大さに感じ入りもした。美術展を日常の後景として利用するのも意外と悪くない。

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