様式と転成

Words without thoughts never to heaven go.

みすぼらしく砕かれた華がどうしても不憫だったから

 

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photo by niznoz

 

 いわゆる近代藝術について考えるとき、それは総じて何を志向していたのだろうかといえば、それはきっとanonymity「無名性」ではないかと思った。不確実で不明確、希釈されかつ濃密なものへと変体しながら、奥の院に眠る美を探し求めたのが近代藝術ではないか。ややもすれば殺伐とした、がさがさとした現実を離れ、現実から何かを抽象し、果てには気化させてしまおうとする意思を感じる。その営為たるや、感服するほかない。

 

 

 なにものでもないこと 

 

 事物というものが現実性の代表であり、一意で特殊な何かだとすれば、美というものはきっと抽象性の代表であり、任意で一般化された何かになるだろう。円なる月が詩となり美となるプロセスは、固体から気体へといたる古典的な三相変化を想起させる。固体から液体への変化は「融解」と呼ばれるが、現実や経験から作品が構築されるまでに世界を壊したり融かしたりしていると言ってたしかに違和感がない。近代藝術に関する言説に精神的という形容詞がつきものなのは、美が気体的なイメージと結びついている証だろう。さて、近代藝術の意図というのが現実を昇華させることにあるのだとすれば、わたしには常々気がかりなことがある。神の技で昇華されたものを固体へと再転換しようとする向きはどうやら収まるところを知らない。一般的に言って直感よりも理解が重用されている時代なのだろうか。この再転換がわたしには、液体窒素で凍らせた華麗なるバラを無理矢理に弄って粉々に砕いてしまうような、とても切ない行為に感じられる。不可逆的な工程を経たものに対して理解することなど一つもない。それは絶望的なくらい途方もなく、ただひたすらに直感する以外にどうしようもない。

 

 奈落の解釈を抜けて

 

 たとえば、悲愴交響曲という名曲がある。いや、「悲愴」という副題は誤っている。なぜならロシア語では"Патетическая"「情熱的」という語が与えられているからだ、という論争がある。いやいや何ともくだらない、作曲家はそもそも別のフランス語を用いてもいたし、要するにパトスってことなのだから、インド・ヨーロッパ語族的には結局言いたいことは同じ、という論もある。・・・大変興味深い、知的好奇心をそそられる話ではある。けれども、乗る舟を間違えている。言葉の恣意性とは異なるところに在るメロディーやハーモニーにはすでに生々しい価値があるのに、それがどういうことなのか改めて言葉を用いて叩き壊す必要が一体何処にあるというのか。

  

 めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな

 

 月が、捨象され一意を離れ、そして詩となり美となる、と言った。たとえば上に掲げたひとつの和歌もその例になるだろう。最初の「逢ひて」、主語も目的語さえも欠落している。人影を徹底的に排し、吟醸酒のように切り落とした情景に月が演出される。ただただ、うつくしい。ここまで抽象化されたものも、やれ誰がいつどこで、やれどのような感慨の下で詠んだのかということが噂されれば次第に興が醒めていく。たしかにそれは理解を助けるし好学的で大変望ましい態度なのかも知れないが、近代藝術の志向したであろうものとは真逆のベクトルを有している。美術館でのとある実験で、絵画そのものよりも壁に掲げられたプレートの説明に対して費やされる時間のほうが長かったというのを聞いたことがある。なんでも理解しようとするのはわれわれの多くが抱える不定愁訴の一つといえる。本当はそこにある「無名性」を受容するだけでいいのに。

 

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